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2019年06月29日(土) 投稿者: 移行用 管理者

『(これから海外へ出ようとしている住高生へ) 原発事故の後遺症とそのリハビリ;福島県・浜通り訪問で考えたこと:平岡 諦』

東日本大震災(2011年3月11日)から8年、たまたまの「ご縁」で相馬を拠点に浜通りを訪れることができた(2019年3月22日~25日)。浜通りとは、福島県の東部、西の阿武隈高地と東の太平洋に挟まれた太平洋沿岸の南北に細長い地域である。高度成長期に火力や原子力発電所が多数建設されて「電源」地帯となった。大震災時、浜通りの大部分で震度6強を観測し、沿岸は大津波に襲われ、東京電力・福島第一原子力発電所(以下、1F)事故が誘発された。

●東京電力・風況調査報告のデタラメ:
 神戸空港から仙台空港へ、それ程の揺れもなく5分ほど早く着いた。空港から名取駅乗り換え、常磐線で相馬へ向かった。名取・相馬間は10駅、50分足らずの予定が、海側への強風で徐行運転となり25分ほど遅れた。運休になった列車も出たそうだ。あの日、このような海側への風が吹いていたなら、放射能飛散による近隣住民への被害は起きなかっただろうに。
 東京電力は1964年12月に地理調査のための事務所を現地に設置し、1965年10月には安全性、経済性から原子力発電所の立地が可能と決定した。敷地地上8mの風向分布を次のように報告している。「年間を通じ西、西北西、北北西が卓越し、出現頻度は各々約12%弱。上記はいずれも敷地から海へ向かう風である」(1)。
 気象庁「東日本大震災関連ポータルサイト」には、1976年から2010年のアメダス観測データから割り出した、浜通り地方の月ごとの「その地点でどちら向きに風が吹きやすいか」を示す「風向の傾向図」が載っている。1Fに最も近い浪江の「風向の傾向図」を見ると、「西、西北西、北北西が卓越している」と言えるのは10月、11月、12月、1月、2月である。5月、6月、7月、8月は南南東から東南東の風が卓越している。3月、4月および9月は移行期で、決して「年間を通じて」敷地から海へ向かう風が吹いている訳ではない。常識的に考えても風向が「年間を通じ西、西北西、北北西が卓越」している場所など日本には無いだろう。東京電力の風況調査報告はデタラメであった。
 なぜ、このようなデタラメが通用したのか。それは原発が国の政策(国策)であり、それが私企業に任されたからだ。上記下線部分で示したように、企業としては安全性をある程度犠牲にしても、経済性を考えなければならない。これが資本の論理であり、マルクスが『資本論』で指摘したところだ。

●津波対策に抜け落ちた「安全率」の考え:
 例えば、エレベーターのワイヤーロープ(主索)の安全率は、普段の運転で4.0、安全装置が作動したときでも2.5と建築基準法に定められているようだ。よく採用される安全率3.0とは、想定の3倍の負荷がかかっても持ち堪えるということだ。原発の地震に対する安全対策として、当初より「重要度に応じた耐震設計」が考えられてきたようだ。事故当時の基準であった、2006年に見直された「新耐震基準」によると、「Sクラス(原子炉圧力容器など):基準地震動に対して安全機能保持:建築基準法の3.0倍。Bクラス(廃棄物処理設備など)同、1.5倍。Cクラス(発電機など)同、1.0倍。但し、機器・配管は更に2割増し」などとなっている。耐震については、安全率3倍が用いられていたのだ。
津波についてはどうだろうか。「新耐震基準」においても、津波は考慮すべき「地震随伴事象」として挙げられているに過ぎない。その対策も「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波によっても、施設の安全機能が重大な影響を受ける恐れがないこと」となっているだけだ。原発の津波対策では、そもそも安全率の考えが抜け落ちていたのだ。安全率を高めようとすると構造物のコスト高を招く要因となる。津波対策においても資本の論理が貫徹されたのだ。
 ちなみに、実際の津波対策の経緯は次のようであった。1Fの各号機は1966年~1972年に設置許可が出された。当初、津波に関する明確な基準はなく、東京電力は既知の津波痕跡を基に設計を進めた。具体的には、福島県いわき市にある小名浜港で観測された既往最大の潮位として、1960年のチリ地震津波による潮位(O.P.=小名浜港工事基準面)を設計条件として定めた(O.P.=+3.122m)(2)。国の原子力安全委員会は、1970年に安全設計審査指針で津波評価基準を出した。そして「過去の記録を参照し最も過酷と思われる自然力に耐えることを要求」したのだ。2002年に土木学会から刊行された「原子力発電所の津波評価技術」に基づいた評価結果(O.P.=+5.4~5.7m)を踏まえ、東京電力はポンプ電動機の嵩上げなどの対策を実施することはしたのだ。
 以上をまとめると、企業は経済性を考えた独自の安全性基準により設計施行を開始し、国は後追いで(流行りの言葉でいえば、「忖度して」)その安全性基準を承認し、学会(専門家)の意見が出されると企業はそれに沿った対策を実施する。しかし、三者とも安全率の考えに言及しなかった。産官学の“素晴らしい”チームプレーである。その結果、「東京電力が対策を講じていた津波の高さはたった5.5mに過ぎなかった」。「ところが、14mを超える津波が福島原発の冷却機能を奪ってしまった」のだ(3)。安全率3.0を掛けて対策していたなら、O.P.5.4mの 3倍、16.2mの津波にも堪えたことだろう。国策による多くの犠牲者を出さずに済んだのだ。

●原発対策は、国内だけを考えていて良いのだろうか:
 原発周辺住民は、将来の原発事故に備えて、その土地、季節別の風況を考慮した避難場所を想定しておくことだ。もちろん事故当日の風向きが最重要である。偏西風の強い時期、たとえば若狭湾にある原発で事故が起きれば、真東にある関西の水がめ、琵琶湖を汚染するだろう。周辺だけの問題ではなく広域の問題である。遠いチェルノブイリの原発事故でさえ、日本の雨水に放射性物質が検出された。偏西風に乗ってやってくるゴビ砂漠からの黄砂や中国大陸からの公害物質PM2.5が日本人を悩ませている。これらを考えると、中国大陸の原発大事故は日本全体を「帰還困難区域」にすることもあり得るだろう。

●常磐線、国道6号の復旧と復興五輪・聖火リレー:
常磐線の徐行運転は、この地帯特有の強い山風による。だから震災以前にも時々あった。震災後はその頻度が増えているという。その理由が津波で冠水した線路の復旧工事の一つ、線路の嵩上げだ。それが列車を横風に弱くした。常磐線は今も福島県内の一部(相馬駅から七つ目の浪江駅と、さらに四つ目の富岡駅間の20.8km)が不通である。その大半は「帰還困難区域」と一致している。2020年3月末までの運転再開を目指して、除染と並行して復旧を進めているそうだ。
 国道6号は常磐線と並走しながら、浜通りを通り抜ける幹線道路だ。1F事故による「警戒区域」に含まれた福島県双葉郡浪江町から富岡町までの30km程度の区間が2011年4月22日から通行不能となった。除染・復旧が進み、自動車に限り全線での自由通行可能になったのが2014年9月15日だ。しかし今も、歩行者・軽車両・原動機付き自転車・自動二輪車は引き続き規制対象となっており、「帰還困難区域」内での駐停車や、国道本線を外れた道路・施設への立入りは禁止されている。窓を閉めてエアコンは内気循環にするよう呼びかけてもいるらしい。すなわち、自動車内への「屋内退避指示」を守れば、国道本線上の移動は可能な「帰還困難区域」ということだ。
 「帰還困難区域」とは、年間積算線量が50ミリシーベルトを超えており、5年間たっても年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らない恐れのある区域とされている。自動車に限り自由通行が可能となったのが2014年9月15日だ。5年後は2019年9月15日である。復興五輪と銘打った東京オリンピック・パラリンピックの開催まで1年も無い。全国を巡る聖火リレーはその前から始まる。ランナーはこの地を走ることができるのだろうか。あるいは防塵マスク・防護服を着けて走るのだろうか。聖火リレーのスケジュールを見ると、双葉郡楢葉町と広野町に跨るJヴィレッジから、グランドスタートするとなっている。
 Jヴィレッジは国道6号から少し海側へ入ったところにあった。着いたのは昼過ぎ、高級ホテルを思わせる宿泊施設から全天候型トレーニング施設へ向かっていると思われる、スポーツウェアの高校生らしき集団がいた。Jヴィレッジは東京電力が地元への貢献として地域振興施設の造営・寄贈を提案したのに始まり、日本サッカー協会が協力する形でナショナルトレーニングセンターとして設立され、福島県へ寄贈されたものである。当時、1Fでの7・8号機増設の見返りではないかとしてたびたびマスメディアに取り上げられたという。1F事故の時は、20キロメートル圏内にあることから「避難指示区域」、後に「警戒区域」に入り、拠点としていたJFAアカデミー福島、TEPCOマリーゼは避難を余儀なくされたらしい。しかし、1Fの南に位置するため、放射能飛散による影響は少なく、原発事故に対応する「現地調整所」、原発に向かう作業員の「中継基地」、さらに除染への対応や賠償の審査業務のための東京電力「福島復興本社」設立地として機能してきた。2020年オリンピックの東京開催が決定したことを受け、トレーニング施設として再利用することを目指し、2017年3月までに東京電力による使用が完全に終了、2018年夏に一部再開、2019年4月の全面再開が予定されている。復興五輪の聖火リレーのスタート地点に選ばれたのは「福島県の復興のシンボル」ということだろう。しかし違和感を覚える。
 オリンピック委員会の発表によると、大震災の被災3県(岩手、宮城、福島)については、日数を配慮して各県3日を設定したとなっている。福島県は2020年3月26日から28日の3日間で、29日には栃木県にバトンタッチされる。福島県内のコースは発表されていないが、現在「帰還困難区域」とされ、自動車のみ通行可能となっている国道6号を、聖火ランナーが走れるくらいに除染できるのだろうか。迂回せざるを得ないようであれば、Jヴィレッジは決して「復興のシンボル」なんかではない。そもそも、オリンピック開催日になっても「帰還困難区域」が残り、帰還困難者が存在しておれば、「復興五輪」は「原発事故被害者を放置した復興五輪」となるのだ。
国道6号沿いに多くの汚染土置場が見られた。元は田や畑であった場所だろう。きれいな乳白色の防護壁に囲まれて、どす黒い大きな袋に入った汚染土が2段、3段に積み重ねられている。このような袋入り汚染土が完全に撤去された置場も所々で見られた。中間施設と称する場所に移動しているという。幹線道路から目立たなくして、復興を印象付けようとしているのだろうか。

●国策犠牲者と憲法学者・鈴木安蔵:
 2011年3月11日から1か月たった時点で、私は「長期化により人権問題・国際問題となってきた福島原発事故」を書いた(MRIC Vol.118, 2011)。周辺住民の人権問題に関する一部を再掲する。「政府、原子力委員会は、周辺住民の現在の生活の質の向上を図るとともに、将来の生活設計に対する情報を提供しなければならない。そのためにはEPZ内の土地の汚染状況を測定し、住民がもとの地域に戻れそうなのか、あるいは移住しなければならないのか、その予測を出来るだけ早期に示すことだ。(中略)個人の将来の生活、つぎの世代の生活が懸かっているのだから」。すなわち、周辺住民が自己決定できるように情報を出すことが政府、原子力委員会の責任であり、早期に出さないことは周辺住民の人権問題であることを、事故後1か月の時点で指摘したのだ。避難が数年に及ぶと、生活の基盤が避難地で築かれることになる。いまさら生活基盤を戻せない。除染が進み「避難指示解除準備区域」となり、さらに放射線量からは帰還が可能となっても、社会生活が成り立たなければ住民は帰還できない。元の住民が一斉に帰還しなければ、すなわち元の住民が元のコミュニティごと帰還しなければ、社会生活は成り立たないだろう。時間が過ぎるほどに、元の住民にとって帰還は困難になるのだ。
実際にこのような地域を訪問した。住人の姿は皆無といっていいほど見られなかった。除染作業後のためか、住宅の庭は異様と思われるほど綺麗に整頓されていた。道を隔てた隣が「避難指示解除準備区域」であるところも通った。やはり異様な雰囲気を感じる。とても帰還できるとは思えない。避難指示解除が補助金打ち切りのために行なわれているのでは、という言葉も聞かれた。元の住民は、原子力発電という国策によって人生設計を狂わされた人たち、あるいは人生設計を立てられなくなった人たちと言えるだろう。
全村民避難となった双葉郡飯館村に隣接し、相馬市南西の端にある玉野地区の酪農家が、新築の堆肥舎の壁に「原発さえなければ」などと残して自殺した。やはり国策の犠牲者の一人だろう。この地区は飯館村とちがい、避難指示となるほどの線量ではなかった。しかし農作物の出荷制限の対象となり、特に、乳製品は直ちに出荷停止となった。幸いにも、相馬市全体としては放射能による直接被害は少なかった。しかし、「相馬市の酪農家」の自殺が原発事故との関連でセンセーショナルに報道されたことにより、「相馬市全域が風評被害に」悩まされることになった。相馬市民全体が国策の被害者と言ってもよい。
憲法学者・鈴木安蔵(1904-1983)は福島県南相馬市小高区の生まれ、生家は今も古びた風格のある屋敷として、常磐線・小高駅前の本通りに残っている。通りに面した「林薬局」も屋敷奥の蔵も無く、ともに更地になっていた。ポツダム宣言を受け入れ、新しい憲法制定が急務となった時、学者、ジャーナリストなど民間人が「憲法研究会」を作り「憲法草案」を起草した。鈴木安蔵はその中心人物であった。「憲法草案」の特徴は、①国民主権の明示、②言論の自由・労働の権利・生存権の保障・男女平等など、基本的人権を網羅的に規定したことだ。GHQや日本政府に提出され、その大筋が「GHQ草案」に取り入れられ、日本の国会で審議され、一部修正後決定された。こうして出来たのが現在の日本国憲法だ。
小高区は、1F事故後に「警戒区域」となり立入り禁止、その後「避難指示解除準備区域」となり、現在は解除されている。小高駅前に屯していた青年たちに問うてみたが、鈴木安蔵を知る者はいなかった。主権在民(民主主義)、生存権の保障など基本的人権を明示した日本国憲法の下、政府は国策の被害者ひとりひとりの人権回復を図る義務を有する。政府にその義務を十分果たさせるためにも、鈴木安蔵をもっと顕彰しなければならない。

●風評被害と被曝調査:
 風評被害を含む、東日本大震災との闘いは、署名入りで頂いた立谷秀清・相馬市長の『震災市長の手記』(近代消防社発行、2017)、また、立谷市長が理事長を務める相馬中央病院を紹介して頂いた上昌広先生の『復興は現場から動き出す』(東洋経済新報社発行、2012)でよく知ることができる。放射能には「正しく恐れ、賢く避ける」こと、そして風評には外部、内部被曝の実際を示し続けること以外に対策は無いだろう。話は相馬入りの日に戻る。徐行運転で予定より遅れて着いた相馬駅には、相馬中央病院の星事務長が待っていて下さった。病院に案内されたのが昼時になり、まず昼飯をごちそうになった。刺身、天ぷら、カレイの煮付けなど近海の魚介類のオンパレードであった。ホッキ貝の炊き込みご飯(ほっきめし)は初めての経験で、本当に美味だった。鱈腹頂いたところで病院を案内してもらった。そこには、とくに子供たち全員の内部被曝調査を行うべく相馬市独自でいち早く購入した、キャンベラ社製の最新式ホールボディカウンターがあった。たまたま運転中であったので、約2分間の計測を経験させてもらった。測定器の前に立っているだけだ。内部被曝量は感度以下であった。案内の後、ご挨拶をした標葉院長からは事故直後、とくに情報が限られた時期での南相馬総合病院での患者対応の大変であったことなどをお聞きした。その後市中へ出て、孤独死対策としての「相馬井戸端長屋」、津波対策としての職住分離の「漁労倉庫」などアイディアあふれる復興施設や、地震による地盤沈下で松川浦より標高の低くなった地区での排水のためのポンプ場など、星事務長に案内して頂いた。多忙の中、長時間割いて頂き厚くお礼申し上げる。

●原子力発電という技術について:
 漫画「鉄腕アトム」の連載開始が1952年である。1963年からはテレビアニメ化され、第1作の平均視聴率は27.4%を記録するほどだったという。その背景には、「原子力の戦争利用」である原爆に見た威力を「原子力の平和利用」へ、という大きな期待があったのだろう。平和利用の一つが原発だ。
日本の原発は、1954年3月の国会に原子力研究開発予算が提出されたことが起点とされている。この時の予算額は2億3500万円、ウラン235にちなんだという。1960年代はエネルギー革命によって個体の石炭から液体の石油へシフトし、火力発電のコストパフォーマンスが向上し、原発の採算性が問題視されていた。その結果、1972年当時、原発は5基、全体発電量の3%以下であった。しかし、1973年11月、第四次中東戦争勃発で様相が一変した。アラブ石油輸出国機構(OPEC)が原油価格を70%も引き上げたことから、日本にも深刻なオイルショックが到来し、国際的にも、国内的にも代替エネルギーとしての原発の重要性が高まった。その結果、1975年には(ソ連を除いて)アメリカ、イギリスに次ぐ世界3番目の原発大国に日本は成長したのだ。
このように成長してきた原発であるが、今回の原発事故でその技術に対する考え方が一変した。まず原発事故は滅多に起きるものではないだろうということ、しかし起きれば始末に負えない代物だということ、そして、できれば原発に依存したくないということだ。依存から脱出するためには、そのための技術開発が必要だ。その技術の一つが原子力以外の発電技術である。それは総電力量を増やす技術であり、太陽光、風力発電など、この技術はすでに相当進んでいる。もう一つは蓄電技術だ。一日24時間、一年365日を通して、必要な時間帯に必要な電力量を確保する技術である。蓄電技術はすでに電気自動車などで実用化されてきている。
 たとえば、国際宇宙ステーションがある。ここでは無数の太陽電池を張り付けた板状構造物により太陽光に照らされている昼間に発電し、この時の余剰電力を蓄電池(バッテリー)に蓄積し夜間に使用している。太陽電池と蓄電池を昼夜で切り替え、交互に使用しているのだ。完全に原子力とは無関係である。なお、日本実験棟「きぼう」は太陽電池を持っていないので、本体から直流120Vの電力供給をうけているという。ここに述べた国際宇宙ステーションは特殊な例である。しかしこの様な電力供給設備を地上で実現できなくはないだろう。そうすれば原発依存から解放されるのだ。その為に必要なのが技術開発だ。原発賛成・反対の議論ではないだろう。

●第5回エル・システマ こども音楽祭 in 相馬:
 今回の相馬訪問の「ご縁」を頂いたのは、エル・システマ ジャパン代表の菊川穣氏である。エル・システマは、1975年にベネズエラで、経済学者で音楽家のホセ・アントニオ・アブレウ博士によって、「音楽の社会運動」の名の下に設立された、児童、青少年のための音楽教育プログラムである。モットーは「奏で、歌い、そして、困難を乗り越えろ」であり、以下の三つの理念を掲げている。①すべての人が経済的事情を懸念することなく、音楽、芸術にアクセスできることを保証する、②集団(特にオーケストラ)での音楽、芸術活動を通じ、コニュニケーション能力を高める、③社会規範と自己の個性の表現を両立することを音楽体験を通じて学ぶ、である。
菊川氏は、ユネスコ、ユニセフを経て、日本ユニセフ協会勤務中に東日本大震災が起き、その緊急支援本部チーフコーディネーターとして支援活動の指揮を取った方だ。2012年3月に一般社団法人エル・システマジャパンを設立、代表理事に就任し、2012年5月には相馬市と協定調印し活動を開始していた。病気、障害の子供たちにも支援活動の輪を広げたいとの氏のお気持ちを聞いて、東京にいる友人、KM氏を紹介させてもらった(今回、相馬で合流)。その「ご縁」で実現したのが、菊川氏の活動成果である「こども音楽祭 in 相馬」への参加である。公演の休憩時間に立谷市長にご挨拶させて頂いたが、誤解を与えてしまったようだ。風評被害にご苦労された、そして、現在もされているだろう市長の気分を害したようで、重々お詫び申し上げる。
原発事故の後始末は、デブリの最終処分を含め、今後数十年、いやもっと長い時間かかるだろう。現世代の失敗が、将来世代の負担となっていくのだ。東日本大震災から「奏で、歌い、困難を乗り越えろ」だけでなく、「奏で、歌い、困難を乗り越えていって欲しい」の願いを込めた、全国の児童、青少年に対しての支援が必要だ。これはまさに「音楽の社会運動」だ。
 今回の訪問でお会いした方々は、相馬市や双葉郡などと違っていても、皆さん生まれ育ちが浜通りであった。お一人お一人にそれぞれの郷土愛の強さを感じた。ただ、地震・津波と原発事故という、自然と人工の二重の脅威に立ち向かってこられた浜通りの方々の経験は、人類全体にとって初めてのことだ。そのとてつもない経験を世界全体の将来のために生かして欲しいものである。それに少しでも関わることができればと思う。実は、このような思いを市長にお話ししようとしたところ、言葉足らずで誤解されてしまったようなのだ。大いに反省するとともに、通じなかったことは残念でもある。いつかまたお話しできる機会が与えられることを切望している。

●さいごに:
 海外で出会う若者たちが、日本から来た君たちに問うとすれば、それは何だろうか。日本文明ともいうべき天皇制のことだろうか、譲位が行われたばかりだ。復興五輪と名付けられた、東京オリ・パラリンピックのことだろうか。復興とは何からの復興か、地震・津波それとも原発事故からか。このあたりが日本に関する時事ニュースだろう。これらについて、説明や議論ができるくらいの知識を持って海外に出て行ってほしいものである。少しでも参考になればと考えて、住高同窓会ホームページに載せて頂いた。

(1)『大熊町史』第4章電力「原子力発電所用地の立地調査」、1985, p.838-839。(Wikipedia「福島第一原子力発電所の用地取得」より)
(2)東京電力の『報告書本編3.4津波評価について(1)及び(2)』
(3)竹田恒泰著『原発はなぜ日本にふさわしくないのか』、小学館、2011。本書は素晴らしい反原発の書であり一読をお勧めする。ご存じのように著者は明治天皇の玄孫、父上はすでに退任を発表されたJOC竹田恒和会長である。片や反原発、片や復興五輪、因縁めいたものを感じる。
        平岡 諦(高15期) 医師